対馬同族

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 雑賀衆

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雑賀衆(さいかしゅう)は、戦国時代に紀伊国北西部の雑賀荘を中心とする一帯(現在の和歌山市の雑賀崎)の諸荘園に居住した国人・土豪・地侍たちの結合した集団(一揆)である。雑賀党ともいい、「さいが」とも読む。16世紀当時としては非常に多い数千丁単位の数の鉄砲で武装しており、きわめて高い軍事力を持って傭兵集団としても活躍した。

概要

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雑賀衆を構成した主な一族としては、雑賀荘の土橋氏、十ヶ郷(現和歌山市西北部、紀ノ川河口付近北岸)の鈴木氏などが知られている。

雑賀衆は世紀頃に歴史に現れ、応仁の乱の後、紀伊国と河内国の守護大名である畠山氏の要請に応じ近畿地方の各地を転戦、次第に傭兵的な集団として成長していった。紀ノ川河口付近を抑えることから、海運や貿易にも携わっていたと考えられ、水軍も擁していたようである。種子島に鉄砲の製造法が伝来すると、根来衆に続いて雑賀衆もいち早く鉄砲を取り入れ、優れた射手を養成すると共に鉄砲を有効的に用いた戦術を考案して優れた軍事集団へと成長する。

 

顕如画像

年(元亀元年)に織田信長三好三人衆の間で野田城・福島城の戦いが起こると、鈴木孫一(雑賀孫市)らを指導者とする雑賀衆は傭兵部隊として三好三人衆軍についた。一方足利義昭の要請に応じた畠山昭高が雑賀衆・根来衆らを援軍として送り出し織田信長軍についた。その後大規模な銃撃戦、攻城戦が繰り広げられたが『戦国鉄砲 傭兵隊』によると、雑賀衆同士が戦った可能性を示唆している。しかし石山本願寺が野田城・福島城の戦いに参戦すると、雑賀衆は一致して石山本願寺につき織田信長軍と戦った。しばしば鉄砲を有効に活用したとされる織田軍も、雑賀衆の鉄砲の技術と量には苦戦し、一度は信長自身も負傷する大敗を喫したことがあった(石山合戦)。

 

信長は本願寺を倒すためにまず雑賀衆を抑えることを考え、(天正5年)に信長自身率いる大軍をもって和泉国・河内国から紀伊に侵攻(第一次紀州征伐)し、雑賀衆に服属を誓わせた。しかし、この戦いで織田軍は大きな損害を出し、服属させたはずの雑賀衆もすぐに自由な活動を再開して本願寺に荷担した。

年(天正8年)に門主顕如が石山本願寺から退去して石山戦争が終結すると、雑賀衆の門徒たちは雑賀の鷺森(現在の鷺森別院)に顕如を迎え入れた。畠山政尚を奉じて信長と争う姿勢を示す。しかし、これ以降、織田信長に進んで従おうとする派と反織田を貫こうとする派が対立し、雑賀衆の内部は分裂することとなった。(天正10年)には親織田派の鈴木孫一が反対派の土橋氏を倒すが、同年の本能寺の変によって信長が横死すると孫一は羽柴秀吉のもとに逃亡し、土橋派が主導権を握る。

以後は、もっぱら中央集権化を進めて土豪の在地支配を解体しようとする秀吉政権の動きに雑賀衆は一貫

して反発続け、根来衆と組んで小牧・長久手の戦いでは大坂周辺にまで出兵して尾張に出陣した秀吉の背後を脅かした。1585年(天正13年)、家康と和解した秀吉が紀伊に攻め入ってくる(第二次紀州征伐)と焼き討ちされた根来寺に続いて雑賀に対して攻撃が加えられ、雑賀衆は抵抗したがかなわずに壊滅した。

かつての雑賀衆は滅びた土豪勢力として帰農したり、各地に散らばって鉄砲の技術をもって大名に仕え、雑賀衆は歴史から消滅した。火縄式鉄砲

根来衆との関係 [編集]

根来衆と雑賀衆は、一部には混同される記述も見受けられるが、全く異なる点と極めて似通っている点がある。雑賀衆は鈴木重秀や土橋守重を始め、石山御坊などに籠城しているところから、浄土真宗門徒と考えられるが、根来衆は根来寺を中心とした真言宗の僧徒らの集団を指している。戦国時代には一説によると寺領が万石とも70万石とも言われている。根来寺の僧は教学や儀式をつかさどる「学侶」と堂塔の管理や寺の防衛をつかさどる「行人」と分けられ、根来衆の大半は行人でしめられている。行人とは僧兵のことで根来衆は僧兵集団と解釈される場合もある。一方雑賀衆には、行人や僧兵と言われる人たちはいなかったと思われている。現在の和歌山市の全域と海南市の一部に、沢山いた土豪の集まりで、地域と密着した集団が雑賀衆と思われている。似通っている点としては優秀な鉄砲集団、傭兵集団で、地域も近く人的な交流もさかんであったと思われ、根来寺に入信後、後に雑賀衆として活躍したり、その逆も多々あったようである。

 

鉄砲 [編集]

鉄砲伝来は天文年月に鉄砲が種子島に我が国で初めて伝来したと思われている。その後根来寺の僧津田算長らが畿内に持ち帰っており、『戦国鉄砲 傭兵隊』によると根来衆経由で雑賀衆に持ち込まれたと思われている。根来衆の佐武伊賀守が天文 に鉄砲を習い始める、という記述が見受けられるので恐らくこの以前には根来衆に伝来していたと思われている。根来衆には一定量の鉄砲があったと思われてい るが、これらの鉄砲をどのようにして用意できたのか、現在に至り明確には解っていない。説としては、堺より外国から移入した、地元で作られた、当時は鉄砲 作成技術はなく他の地域より職人を招いたなどが言われているが、いずれも推測の域を出ない。仮に鉄砲を自前で作成していたとしても、雑賀には鉄砲の材料と なる真鍮黒色火薬の材料となる硝石が生産されておらず、入手経路等を示す資料は解っていない。